2001年9月26日(水) 所要時間:8時間5分 費用発生:19,600円
2310京王八王子=529山科540・・・膳所602・・・南滋賀駅615−南滋賀625−845ケーブル延暦寺−1000玉体杉−1015横川分岐−1100仰木峠−1150大原三千院−1325静原公園1345−1430鞍馬1440・・・出町柳・・・三条京阪・・・京都1558・・・米原・・・豊橋1902・・・浜松1939・・・静岡2014・・・小田原2114・・・多摩センタ000・・・005大塚

東海自然歩道の旅も快調に西へ進み、帰りの電車の中では皆が関西弁をしゃべってるなあと感じるようになった。琵琶湖まで到達し、あとは比叡山を越えて京都の北側を歩きポンポン山と竜王山を越えれば大阪であり、長かった旅もだんだんその終末が見えてきたのである。インターネット等で情報収集した結果、見たところ私のコンディションなら4日で歩けそうだが、夏休みのように4日も会社を休むわけには行かぬ。前回の音羽山から帰ってきた一週間後、私はまた旅に出ようと決断した。前の晩に急遽やろうと決めたので会社からいったん家に戻って装備をパッキングしたあと、あらためて八王子に向かう。
東海自然歩道のトレッキングは私にとって道楽である。だが気分転換のはずの道楽も前提として社会生活というものがあるわけであり、社会生活には労働が必須である。最近日本の雇用情勢がどうもおかしくなってきているが、今まではだれもがそれなりの会社に入ればそれなりの給与を受け取ることが出来たのであるが、これからは自分の価値を使用者(会社)にいくらで評価してもらえるか、という時代になるのであろう。会社が労働者に給与を支払うだけの価値を認めなければ、使わなければいい話である、という「無法・無道」の世の中になりつつある。そのような世の中の本質を私は理解していないわけではないが、時折は逃げ出したいほどの衝撃もある。そういう時に気分を紛らわせるには旅に出るのが最良ではないだろうか。
それはさておき、今回も八王子発京都行きの夜行高速バスの人となる。バスは夜の中央高速をけっこうなスピードで西へ進んで行く。客席部分は窓を含めカーテンで仕切られているので暗さが保たれているので眠りやすい。ただどうしてもエンジン音や揺れで夜中幾度も目を覚ましてしまう。夜明け前、高速バスは京都東インターを降り、山科駅前に到着した。松屋の牛丼で腹ごしらえをした後、JR線の始発で膳所に向かい、そこで京阪電車に乗りかえる。ほどなく前回打ちきった南滋賀である。打ちきりポイントであるバイパス道路の下へ進み、ほどなく前回の離脱箇所を確認した。道標にタッチし、6時25分に歩みをスタートさせる。
小川沿い西へ歩き、比叡山方向へ入りこんで行くとほどなく百穴古墳の分岐。そこからしばらく歩くと志賀の大仏。2mほどの高さの花崗岩の一枚岩に大仏が彫られている。石に彫られているためか、表情がやや柔和なように感じられた。なおも道は小沢沿いに西へ続き、ほどなく崇福寺跡に出た。事前にいくつかの道標にここから比叡山の頂上までは通行止めである旨の注意書きが貼ってあったのだが、ネット等で調べた所それほど困る箇所もないらしいと判断し、構わず前進する。しばらくは谷筋の道であるが、やはり歩く人が少ないためか草が茂りところによっては荒れ気味の箇所が見うけられる。砂防ダムを越えた所でいよいよ有名な比叡山の階段にさしかかった。歩幅に合わない丸太の階段が連発されて、たちどころに息が荒くなる登りである。
尾根の取り付きの登りを丸太階段で一気に高度を稼ぐ。きょうは快晴であり、朝から大汗をかいてしまう。こういうハードな登りはあとあと足にくる要因となる。やがて道は尾根筋に出て、琵琶湖の眺めの良い地点を過ぎてさらに少し登ると夢見が丘であり、比叡山ドライブウェイを目の前にする。しかし、あろうことかせっかく稼いだ高度をいともたやすく手放し、いったん谷筋へ下る。けっこう下って、沢を小橋で越えて四谷川からの道を合わせる。そこからまたも上を見ただけでうんざりするような急登りであった。東海自然歩道は厚生省がつくった道であるため、山の斜面に無理矢理つけた丸太階段道というパターンは多々あるのだが、ここまで長くサディスチックな登りははじめてである。湯の山温泉も鈴鹿峠もひどかったがここの登りは一直線であるため、なおきついように感じた。
そこを耐えると、尾根どおしの緩いのぼりを経て、再度ドライブウェイに寄り、こんどは比叡山東側の山腹を巻き気味の道となる。山腹をひたすら歩き、途中1ヶ所あった倒木でザレた箇所を過ぎて、ようやく比叡山延暦寺の寺院ゾーンに入った。弁天堂の涌き水をゴクゴク飲んで渇きをいやす。そこからは無動寺の参拝道を登って行き、ほどなくケーブルカーの延暦寺駅に到着した。暑いので自販機のアクエリアスを飲む。ここからは延暦寺の境内を南北に突っ切って行くが、比叡山は思ったよりかなり広かった。まずは駐車場の脇から根本中堂方面へ進み、入口で東海自然歩道通過者である旨を告げる(参拝せず通過するだけならば拝観料は不要である)根本中堂のほんの少し手前で鋭角に曲り、法華総持院(東塔)の真ん中を突っ切り、裏側から道に戻って弁慶水のそばを通る。そこからドライブウェイを越えて石造りの坂を下り、浄土院の前を左に折れる。
しばらく歩いて比叡山自然教室の真後ろを通り、椿堂の横を通り親鸞上人修行の地を過ぎ、にない堂の真ん中を通る。弥勒石仏の横を過ぎてなおもすすみ、いよいよ行者道に入る。昔から比叡山で修行を行った僧侶がこの道で回峰の行をしていたらしい。ゆるい登り下りを続け、展望が開けてくると玉体杉である。東は山々のかなたに琵琶湖方面が垣間見え、西は京都市が見渡せる展望ポイントである。ここでおにぎりの朝食。そこから尾根上を少し歩き、横高山の稜線を通る道を分けて横川方面へ進む。くだりぎみの道から一度アップダウンを経て横川バス停。東海自然歩道は横川中堂を通らず、駐車場の脇から仰木峠へ向かう。
横川地下道でドライブウェイをくぐって別れ、そこから伐採跡の丸太を越えていったん谷へかなり下る。おいおいと思いつつかなり下ると、橋で小沢を渡り、そこから強烈な登り返しである。水害で若干荒れており、土嚢などで補修がされている。つらい登りをしのぎ切ると稜線の道と合流し、そして前谷からの道を分け、ようやく仰木峠に辿りついた。ここからは大原へ向けて下る。滋賀県を抜けて京都府に入り、少し下って戸寺への道を分けたあと、じめじめして岩のゴロゴロした歩きにくい下りを進んで行く。一度だけ濡れた岩に足を滑らせコケてしまった。沢筋のようなじめじめした道を下るとほどなく農道に出て、大原の里に降りついた。ここからは道標に従い、三千院へ向かう。
駐車場や土産物店や食堂が建ち並ぶ中を淡々と歩く。さすが京都であり、土産物屋の商品構成は五重塔の模型や張り傘など、いちだんと観光客を意識したものになっている。また食堂では湯豆腐の看板が目につく。中年女性の観光グループでいっぱいの三千院の門前で左に折れ、国道を交叉して寂光院方面へ向かう。意外と田園的な道を歩き、寂光院への道を分けて自然歩道は南に向かい、しばらく歩いて左に折れ、小松均美術館の左を通り県道を渡り、江文峠への登りにかかる。山道をゆるやかに登って行くとあっけなく県道と合流し、江文峠を越えた。
平安京に都が移されたのは794年のことであるが、奈良時代は大仏建立や遣唐使、鑑真和上の来日など華やかな面が印象的だが、飢饉や疫病が繰り返され、また政権の実権も藤原不比等→長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡→藤原百川・永手とめまぐるしく変わったので、時の桓武天皇は長岡京への遷都を企画したが、造営責任者の藤原種継が暗殺され、和気清麻呂の建議もあって桓武天皇は平安京への遷都を決めたのである。ここは思いのほか攻めにくいところにあり、東は琵琶湖や逢坂の関で入りにくく、北は鞍馬山に始まる京都北山が延々と連なり攻めにくい、南は巨椋池などがあって攻めにくい、南西方向だけガードしておればよかったので為政者にとって都合が良かったのであろう。小生も延べ32日かかって京都に入ったが、この攻めにくい地形にはなるほどなと思った。じつに京都の北側は城壁に等しい所なのだ。
さて、江文峠を過ぎると道は再び山道の下りとなり、左へ瓢箪崩山への登山道を分け、ゆるく下って県道の下をくぐり、静原へと降り立った。小学校の横を過ぎて静原の集落を通過する。山のふもとの児童公園で弁当の昼食。歩きはじめて七時間超。比叡山の急激なアップダウンで著しく体力を消耗しているので鞍馬で打ち切ろうと決心する。さて、薬王坂へ向けて本日最後の峠越えである。水谷を渡り、洗濯板のような溝を打った勾配のきついコンクリ道路を登り、ほどなく山道に変わり、山中の小屋を2軒ほどみてからも登りは続き、ようやく薬王坂のてっぺんに到着した。天が岳方面へ道がのびている。
ここからは薬王坂を鞍馬へ向けてどんどん下る。徐々に下界の音が大きくなり、順調に高度を下げて鞍馬川を渡り鞍馬街道に出て、鞍馬山山門を瞥見してほどなく叡山電鉄の鞍馬駅に到着した。まだ二時半である。叡山電鉄で眠りこけながら出町柳へ出て、地下鉄などを乗り継いで京都へ出て、今回は少しでも安く上げるために新快速や普通列車を乗り継いで静岡へ出て、そこから新幹線で小田原に出て、小田急で多摩センターへ向かった。