風よ、空よ、山よ 総集編 「愛と孤独の青春」

よいこのみなさんへ これまでのあらすじ

遊びはもう終わりだ!シンデレラは王子を喰う。本業激務でのた打ち回って、n年後の自分をシミュレートしておびえる日々に疲れ、まわりの雑音に辟易し、もうなるようになれと最近は思っている。上司や先輩から、アレヤットイテコレヤットイテなどといわれても、数年前の自分ならハイワカリマシタといって真っ向からぶつかっていたのが、「わかりました、でも休みは週2日とりますからね、帰りも21時には帰りますよ」などとナンジャクなことを抜かす。さすがに少しくたびれてきたのか、叶う夢と叶わない夢の識別がついてきてある種の人生に対する諦観ができてきてしまっているのか。それでも私は旅に出る。この道楽だけは手放せない、私が私でいるかぎり。

風が強く、寒い。 頂上の山小屋で具はネギとワカメだけの800円のうどんを食べる。ご来光まであと一時間以上ある。待つしかない。それにしても寒い。眠ったら凍死してしまうのではないかと思わせるくらい寒い。自販機で400円の缶コーヒーを買う。下から持ってきたポテトチップスの袋が気圧差の影響でパンパンに膨らんでいる。 ようやく夜明けがやってきた。日の出を拝んでからお鉢巡りに出発する。早朝で霧はかかっておらず景色をさえぎるものは何もない。富士五湖の大パノラマに見とれる。南側は低山が延々と連なり、山水画のような風景であった。 測候所のドームの前を通り剣ヶ峰へたどりついた。3776m、日本の最高地点である。やったぞ、と思う。(01富士山)

91年7月に富士山に登ったのが私が登山を始めるきっかけだったと思う、そのころ、高校の図書館で読んだ「日本百名山」という本に感銘を受け、いつしかこの本に載っているから登ろうというふうに考えるようになってしまった。当時の私は高校生で、早くカノジョが欲しいななどと思っていて、学校やバイト先の友人と恋の話やワイダンなどをしていた。そういった怠惰な青春?へのアンチテーゼというか反動といったものが、私を登山というスポーツに導いたのかもしれない。

バタッて倒れてしまった。雪の上にへたり込んだ。足はまだいけるが心拍数が多く、体がもはや言うことを聞かない。あかん・・・そしてそのまま一時間が経過した。通りかかった登山者が「おい、大丈夫か」と言ってくれ、荷物を持ってもらってやっとのことで起き上がり、頂上へ向かったんだ。ザレ場の登りがきつかった。 青息吐息で頂上に来た割には景色は良く覚えていて、鳳凰、甲斐駒、金峰、八ヶ岳、北ア、浅間……まあそれだけ瀬戸際で印象が強かったんだと思う。雪の中をやっとの思いで下って、甲武信小屋に着いた。フラフラ。本当にもうダメだ。小屋番からも無計画無装備で登ってきたことについてお叱りを受けた。(07甲武信岳)

甲武信ヶ岳でけっこう危ない目にあってから、登山靴を買って、それ以降定期的なペースで山に向かうようになった。高校生のときは異性を追いかけてばかりでロクに勉強をしなかったので一年浪人したけど、大学生になった。学費を自分でバイトして稼ぐという日々だったので、正直あまり多くの山に登れなかった。でもこのころは明日があった。ここさえ耐えれば、安寧なるミライが待っているという幻想があった。

突如として樹林帯が切れて高山帯の道に入る。いきなりアルペンになってしまった。岩と岩の間には白砂が敷き詰められ、片隅には高山植物が可憐に咲いている。そしてハイマツが地面に絡み付くようにして茂っている。ハイマツと白砂と巨岩。まさに巨大日本庭園であり、自然の芸術の集大成である。ついにここまで来たかと感激する。巨岩の間をぬって登り砂払岳にたどり着いた。眼前の薬師岳が大きくそびえている。少し下ると薬師岳小屋の発電機の音が聞こえ、小屋にたどり着いた。 薬師岳小屋はプレハブとログハウスのウッディな造りが結合したかの感がする小屋であった。宿泊料は二食付きで6000円。寝室は限られたスペースを効率よく活用するため、半二層式であった。夕食は和食で、おかずの種類は意外に多く、メニューは御飯、味噌汁(具はふとワカメ)春雨とワカメの酢の物、肉じゃが、小魚の煮物、鳥の唐揚げであった。(14 鳳凰山)

日本アルプスへの初見参は南アルプス鳳凰山であった。わたしはこれ以来アルプスに魅せられた。俗界とはかけ離れた神秘の世界。4年間にわたる苦学を終え、とりあえずカイシャインになった。しかしそこはこれまでの仕事よりもっと厳しい職場であった。ひとりで店番をしていればよかった、棚に商品を並べておけばよかったコンビニ屋から、報告連絡相談や調整交渉といった事務職となり、かなり苦労した。そんなとき私を支えてくれたのは、山と音楽、だったと思う。カイシャインになったらかっこいい車を手に入れて、コイビトと夜景のきれいなホテルでごはん食べて高いお酒飲んで・・・という未来予想図、は、会社入って2年目でくだけちった。

登りつづけるたびに道の傾斜は増し、当方は顔を歪めつつ登りに耐える。標高2400mを過ぎるとバットレス方面から小沢が落ちてくる。沢水をボトルに詰めさらに登りつづける。雪渓が尽き、谷が狭まり、標高2600m付近で沢を離れ八本歯のコルへの取りつき。この道は急登りと木のハシゴを連ね、厳しさは筆舌に尽くしがたい。登りがサディスチックである。職場の先達に叱責恫喝査問されるのとどちらが厳しいだろうかなどと考える。木のハシゴを一段登るごとに心臓に負荷がかかってゆき寿命が縮まって行く気がする。青息吐息で八本歯のコル到着。対面の八本歯の頭が雄々しい。(31北岳)

いくつもの胸に抱えていた思いがうまくいかず、カイシャイン生活で挫折感も多く味わって、ストレスから夜眠れなくてウォッカを飲むようになった。タバコにも手を出したが、登山での呼吸がきつくなるので1年でやめた。

私はあきらめない。私はあきらめない。私はあきらめない。頭の中で呪文のように繰り返し、夢であり憧れである穂高へ向かって、ザイテンの岩の要塞を、一塁一塁と歩を進めて行く。前へ、高く、ザイテンの岩場と真っ向勝負。苦しくなったらその場で立ち止まり呼吸を整え、また岩山へ挑戦する。午後2時を過ぎ、高山の常であるが上の方からガスが出てきた。登りつづける登山者達に道を譲ったり譲られたりする。あまりの苦しさに涙がにじみそうになる頃、穂高岳山荘のものらしい荷物運搬用のケーブルらしきものが見え、次いで穂高岳山荘の建物が視界に入った。「見えた!」私は思わず声を発し、そこから一歩一歩慎重に進んで行く。ほどなく岩間の道は終わり、小屋へ向かってガラガラの急登を詰めて、ようやっと石を敷き詰めたテラスのある穂高岳山荘に辿りついた。北は涸沢岳、南は奥穂高岳へ急峻な道がのびている。時刻は午後2時36分であった。(44奥穂高岳)

バスの時間まで間があったので、バス停に近い休憩施設「楽養館」の温泉に立ちよって汗を流す。湯が茶褐色でいかにも効能のありそうな湯である。温泉につかった後、食堂で「山菜入り定食(1200円)」を食べたが、これははずれであった。ごはんと味噌汁の他に山菜の煮物と漬物が6品ズラリと並んでおり、山うどのヒタシや山菜のヒタシはエグ味があって、ふだんジャンクフードばかり食べている小生の口には合わなかった。蕗の煮物や芋のなますもあまり美味しいとは感じなかった。しかし野沢菜漬けは好物でしかも本場だからうまかった。お茶をのみながら山菜をしずしずと口に運び、秋山郷の夕方を楽しむ。山に登り山裾の鄙びた村で山のものを食べるとは風流ではないかと思う。このあとはバスを乗り継いで越後湯沢に出てその日の内に新幹線で帰京というあわただしいスケジュールであるが、こういう秋山郷の山間でぼんやりできる山旅はやはり面白い。私はゆっくりと野沢菜を口に運んだ。(50苗場山)

殺伐とした日々の中で、休み時間に休憩室でM課長やFさんやミスターOにもうダメだ自分はダメだとマイナスの言葉を吐き続ける自分。それでも心の中には山があったからここまで来れた。昼間会社で多少気に障ることがあっても、夜自宅で昭文社の「山と高原地図」を広げれば、気が晴れたのです。そして夢は膨らむ、夢は広がる。気がつけば日本アルプスはおろか北海道や九州、四国にも足を伸ばしていた。かかる費用は増大し、本業激務の私には容易なことではなかったが、もうそんなものはどうでもよかった!

時刻は正午すこしまえ、眼前の五竜岳をいつやろうか迷ったが、霧の中登るよりはあす朝の好天を期待した方がいいし、午後になると雷の危険もあるし、小生も行動四時間の割にへばっているので、きょうはこれでおしまいにすることにして、五竜山荘に入り宿泊手続き。一泊二食で8,600円。正午前に一日の行動がすべて終わるなどというのは日頃の仕事漬けの毎日からみれば仰天である。ともあれ指示された「くろゆりの間」の上段へハシゴで登り一休み。食堂でうどん(600円)を食べた後は部屋で本をよみながらゴロゴロして過ごした。5時からの夕食はカレーライス(おかわり自由)、味噌汁、フルーツポンチ。このカレーがうまかった。味噌汁も大根や山菜が入っておりうまかった。ワインの小瓶(600円)を飲みながらカレーを三皿食べた。(73五竜岳)

投石岩屋に到着。なんとしても日暮れ前に大勢を決してしまおうと思って急いているのかかなりのオーバーペースである。ここからは主脈の西側を巻きながら登り道。樹林帯から低木帯になり、風もすこし出てきて高山らしくなって来た。残り1.4kmから道はまたくだり気味になって、小さい湿原を抜けて残り1kmを切るとつらい登りとなった。淡々と登り、栗生岳の巨岩を見てもなお登り、霧の間から登りの終わりらしきものが見えて、15時17分、ようやく長年の念願であった宮之浦岳頂上にたどりついた。きょうはガスのため展望はなかったが、私は満足して頂上の標柱を抱きしめた。登頂のポーズ、決めっ!(82宮之浦岳)

イザルガ岳への分岐を過ぎると亀甲状土のセンジが原を横切る。ついにここまでたどりついたのだ。光岳だ、センジが原だ。木道を感動に震えながら歩いた。ゆるい斜面をひと登りして、県営光小屋には14時すこし前にたどりついた。宿泊手続きをしたあと、空身で小屋裏手の丘にむかい歩を進める。すぐに寸又峡分岐を過ぎて、どうということのない道を進むと、あっけなく光岳頂上に到着した。登山をはじめて14年、ようやくあこがれの山の頂きに立った。行動時間7時間そこそこで着いたので、難易度的には他のアルプスの山に劣るが、ついに最果ての地に来たのだという感慨があふれてくる。だが、夢がひとつ叶ったときはそうなのだが、一抹の寂しさ、虚無感のようなものは残る。これからは、何が私をしばりつけるのであろうか。山の頂上で涙ぐんだのは初めてであった。(86光岳)

気がつけば私も30代に突入し、もうオジサンになってしまったのかと最近よく思う。ついこのあいだも登山の行きの暇つぶしに週刊現代を買ってしまった。心の幸せも、平穏な日々も、あふれる野望も、そんなものはたいてい幻想だと気づく自分がいた。それでも私は百名山に登る。高校のころ図書館で深田さんの本を読んでしまったからか、俺はダメ人間なんかじゃないんだという劣等性の反対証明なのか、自分でもよく分からない。2005年の8月、北アルプス笠ガ岳に登ってから、何が何でも近いうちに100座やってやるぞ、ぜったいやってやるぞと強く強く思うようになった。

ようやく頂上の祠が見えて、そこへ向けてやせ尾根を進み、ようやく利尻岳の北峰頂上にたどり着いた。登頂のポーズ、決めっ!水を飲みながら絶景を堪能。利尻島の麓はもちろん礼文島や東側の稚内方面まで見渡せる。北側のかなた、霞の間にある陸影のようなものはサハリンであろうか。帰りのフェリーのこともあるので休憩を10分で切り上げ、急な下りに挑む。登りでスタミナの大部分をロスしていただけに苦しかった。足が思うように動かないので、自信のないところは体育座りの格好でズリズリと下った。何回か転倒したが、沓形コース分岐を過ぎると幾分ましな下りになって、ザクザクした石の上に足を置きながら下って、頂上から50分ほどで避難小屋まで戻ってきた。アップルパイ2個の行動食。(92利尻岳)

2006年夏、北海道の山を2週連続で登るという暴挙に出て、とうとう百名山の残りを5つにした。ここまできたらひとつずつゆっくり楽しみたい気持ちより、やるぞやるぞ次はどこだという狂気が入ってきている。残るは北海道が3つ、そして北アの薬師、東北の朝日岳。私はいよいよ地獄の扉を開けた。100座登り終えた先にいったい何が待っているのか、まだ分からない。遊びはもう終わりだ、シンデレラは王子を喰う、しかし、悲しみは時の流れの途中で、繰り返しながらいつか強さに変わることを私は信じている。

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